「ケセン語」のはなし


 皆さん、こんにちは(^o^)/

愚之問・左です(^^;  

「ケセン語」なる言語

 2ヶ月ほど前、NHKで取り上げられていた話題ですが、「ケセン語」なる 言語が日本の東北地方にあるのだそうですね。方言ではなくて、立派に独立し て存在する言語だそうです。早い話が… 気仙地方の、いわゆる「ズーズー弁」 の事なのです。

 長らく関西に住んでいた私は関西語(関西弁というのが普通か)が大のお気 に入りでして、これを「方言」というのは可笑しいと思う気分があるのですが、 ズーズー弁だって、これを東京弁と比較して見苦しいものとする視点はいささ か狭量ですね。

 で、ここに信念の有る人物がいまして、「ズーズー弁は日本語・いわゆる東 京標準語とは別個の、独立した一言語である」と宣言したという次第(^o^)
 この「信念のある人物」というのが、7月中旬、NHKの教育TVで特集さ れていましたし、8月に入ってからは朝日新聞の「人物」欄で取り上げられている ほどの話題の人物なのですが… この人物の書物をアマゾン・コム (http://www.amazon.co.jp)で検索してもヒットしないので、このメモを諦め かけていたのですが、ようやく下記のようなデータが見つかりました。

1)この人物の名前は「山浦玄嗣」(やまうらはるつぐ)さんです。

2)山浦玄嗣さんと「ケセン語大辞典」
  http://www.mumyosha.co.jp/topics/0101/topics03-c.html

3)ケセン語大辞典 上・下
  http://www.mumyosha.co.jp/00new/kesen.html

 【ケセン語大辞典】の編纂

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 ご覧のように大変な力作です。文字通りライフワークですね。
 詳細は、上記の資料をご覧いただくとして、この山浦さんは「ケセン語」 と「日本語」の間の辞書「ケセン語大辞典」を自力で編纂するほど「ズーズ ー弁」に入れ込んでいる人です。



 【聖書のケセン語訳】

 幼少からのクリスチャンでもある氏は、「国際的に一人前の言語ならば聖 書の翻訳を有しなければならない」との一般的な評判を耳にして、「聖書の ケセン語訳」を決心されたそうです(^o^)
 しかも聖書のたんなる「ズーズー弁化」ではなく、聖書の原典(古代ギリ シャ語だそうです)を一から研究することによって、今回の翻訳を達成した そうです。

 話に聞くだけでも目頭の厚くなるような、壮大にして熱烈な挑戦ではない でしょうか。上記HPにも「野に遺賢あり」との賛辞がありましたが、私達 と同じ時空間にこれほど感動的な事業を達成した人物がいたということは本 当にありがたいことです(^o^)

 …上記URLに関しては、まずはそのTOPをご案内するべきでした。
「無明舎出版」
 http://www.mumyosha.co.jp/index.shtml

 いわゆる、地方の出版社ですね。当初わたしがアマゾン・コムで検索を行 ったのがそもそもの間違いでした。実にじつに素晴らしいHPです。

 その下に、下記の情報がありました。これが、前述の朝日新聞の記事です。
 http://www.mumyosha.co.jp/review/kesengo/asahi.html

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ケセン語の「神」

 人間誰しも(特にオトコは)、自らの希薄な存在意義のなんらかの拠り所 を求めようとするのは当然の事ですが、実際問題となると、私のような凡人 などはなんの達成感も獲得できないままに…ブツブツ… (^^;  てなことに 成りがちですが、世の中には凄い人物がいたものです。
 こういう力作を見ると、それにつられて私まで何がしかの満足感を得てし まうのは余りに脳天気な話ですが…。
 一式で\38,000.-  チョイ手が出ないお値段なのは残念(^^;

 ところで、聖書の原典(古代ギリシャ語)からの翻訳との件ですが、たと えば「神」です、これをケセン語ではどう訳するのか? 日本語の「神」 では、気仙地方の人々の言語感覚では、まるでよそよそしい外来語のよう に響くに違いありませんね。
 山浦玄嗣さんは「言葉は本来 口から出て耳に入るもの である」との信念 の持ち主です。東京標準語のような、土着の生活感覚からは切り離された言 語、しかも印刷物の世界の「神」のような単語では、気仙地方の人々でなく ても、その魂の根底から揺すぶられる言葉とは言えますまい。

 ということで、氏は「神」のことを、ケセン語で「オトッツァマ」と訳す ることにしたのです。
 従って、「天にまします我らが神よ」のケセン語訳は、「天においでの オトッツァマ」となるわけです。これを朗々たるリズムに乗せてケセン語 (ズーズー弁)で朗するときには、私のような外国人(ケセン国外の人間) にも圧倒的な情感を持って訴えかけてくるものがあります。

 山浦さんは、地元の教会でこのような調子の「ケセン語訳の聖書」の朗読 会を行ったことがあるそうです。ズーズー弁で聖書を読むなど不謹慎だとの 反発もあるなかで、それを聞いていたある老女は涙ながらに山浦さんの手を 取ってこう言ったそうです「きょう初めて聖書に書かれてある事の本当の意 味が判りました。ありがとうございます…」



ケセン語の「愛」

 聖書の翻訳と言えば… あの「愛」という言葉はどう訳すのか、というの もいたって根本的なことになりますが、山浦玄嗣さんの翻訳には「愛」と言う 言葉は一切出てこないそうです。われわれの標準語での会話でさえも「愛」と いう言葉を自然に使いこなすことには大きな抵抗感がありますが、「ケセン語」 となるとなおさらムズかしいですね。

 ここでチョッと脱線をば:

 以前、NHKのニュースを見ていたら、たしかタイだったと思うのですが、 デモのシーンが写っていまして…。で、その画面の中で、20歳前後と思われる 若い男が大声で盛んに叫んでいます。

 " I love him !, I love him ! ... "

 その翻訳の字幕スーパーには、なんと「我らの国王を支持する!」と出ているのですよ…

  いやぁ、これには驚きましたねぇ。何年も前のことですが、このシーンは いまだに忘れられません(^^; 欧米人と異なって、日本人は「love」という 言葉は使いこなせない、と思っていたら、なんと、同じアジアのタイの青年 がこういう風な「用例」で「love」 を使いこなしていたのですから…

 例の 9月11日がそれほどのトラブルもなく通過しましたが、あれは一体何 という事件だったのでしょうかね。新聞でもTVでも色んな特集を組んでは いますが、どうも勘所を逃しているような…
 私の頓説では、ズバリ「国家と宗教」の関係の成熟度にあると思いますが。 アラブ諸国はその社会体制内でその宗教を相対化することに失敗した、これ が今回のテロ事件のみならず、イスラム・アラブ社会が世界の混乱要因とな っている最大の原因だと思います。マスコミの3流評論家にはこの辺たりが サッパリ見えていないようですが。

 さてその対極の米国ですが、十字軍などという凡そ時代錯誤的な禁句を持 ち出して世界の失笑を買ったブッシュは、それでも熱心なクリスチャンなの でしょうが、それならば、なぜあの有名な「汝の敵を愛せよ」という言葉を 持ち出すことはないのでしょうか。
 テロの直後にこの「汝の敵を愛せよ」を世界に向けて発言したならば、ア ラブのテロリストグループは同義的に壊滅的な打撃を受けたであろう…、と は言いません。いかにぼんぼんの私でもそうは言いませんが、復讐の鬼と化 したブッシュに世界をリードする精神的な水準の高さが全く見られないのは 残念至極です。青年的な志の高さを持っていたクリントン時代を懐かしく思 うのは私だけでしょうか。

 「目には目を」か、それとも「汝の敵を愛せよ」なのか。…「言葉は人に 使われてのみ存在する」のだとすれば、根源的な空しさを感じさせますね。 このあたりを追求し始めたらキリが有りませんが…。

 さて、ここで「ケセン語」が登場するのです。山浦玄嗣さんのような真の 知性が構築する言葉の空間が登場するのです。氏は、この「汝の敵を愛せよ」 をどのようなケセン語に訳したのかということです。先にもお話したように、 私のような平均的なおじさんには、どうにも使いづらい「愛」という言葉で すから。
 大体が「愛」などという、日本人としては中学校英語の「英文和訳」で初 めて出くわすような単語をここで用いるのがそもそもおかしいのです。

2種類の「愛」

 聖書の原典を和訳する場合に「愛」としてしまった「古典ギリシャ原語」 には実は2通りの単語があるのだそうです。

(1)フィリアー
 いわゆる男女間の愛、好いた惚れたという場合の愛。

(2)アガペー
 理性の命ずるところの愛、理念として「そのようにあるべきもの」として の愛。これがいわゆる「汝の敵を愛せよ」という場合の愛に相当するわけ です。

 両者はそれほどにも異なった概念なのです。なにしろ「感性」と「理性」 ですからね…、それを(明治時代のお偉方は)いずれも「愛」という、日 本語として全くこなれていない単語に翻訳してしまったわけです。当時の 先覚者の「尊い聖書の教えをすばらしい日本語に訳したい」という必要以 上の意気込みが空回りしてしまったということでしょうかね。

 さて、そうなると、「汝の敵をアガペーせよ」は、どう訳することに なるのか。ここで山浦玄嗣さんの名訳をご紹介しましょう:

「あんだのカダキだって、大事(でぁじ)にしろ」

 となるのです(注)。「君の敵だって大事にしなさい」です。名訳で すねぇ、本当に名訳です。…これならば心底納得できますね。
 (注:この翻訳文は、TV放送の音声を私が急いで書きとめたものです ので多少正確ではない恐れがあります。)

 こうなってみると、標準日本語の「汝の敵を愛せよ」などより、ケセ ン語(ズーズー弁)訳のほうが聖書の原典をよりリアルに再現できたと いうことになります。
 ケセン語は私にとっては「外国語」ですが、それでもこのケセン語訳 の教えは標準日本語訳のそれよりも圧倒的な情感をもって訴えかけてく るものがあるではありませんか。

 先のアフガンでの米軍の戦争捕虜(タリバーン兵)の扱いには国際法 に反した随分むごいものがあったそうですが、「汝の敵を愛せよ」では なく、「敵とは言っても大切に扱え、それがあなたの良心があなたに命 じる振る舞いである」ということです。憎い敵だとは言っても、否むし ろ、憎いからこそ、その敵を人間として大切に扱うよう命ずる「理性の 声に従え」という、強い指示なのです。

 卑しくも文明人ならば、です。 …このケセン語を識ってみれば、 ブッシュの視線の低さは明々白々ですね、もちろんビンラディンに おいては何をかいわんや、です。

 こうなれば、「汝の敵を愛せよ」という聖書の中のお奇麗事めいた言 葉も、私たちの普段の世知辛い人間関係を根源的なところで支えてくれ る言葉であることに想達することになりますね。

 山浦玄嗣さんのケセン語に対する想い入れの素晴らしさの一端なりと もお伝えできたかどうか心配ですが、本当に素晴らしい言語世界がある ものですね。ちなみに、氏の【聖書のケセン語訳】は、今後ともまだま だ続く作業のようですが、もし部分的にでも出版の運びになれば是非と も読んでみたいものです。

 最後に、この山浦玄嗣さんの本を扱っている、いわゆる地方出版社で あるところの「無明舎出版」のHPを再掲しておきます。  http://www.mumyosha.co.jp/index.shtml


by 愚之問 15Sep.2002 (updated 01Oct.2002, ver0.07)


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